沖縄シャウト
「沖縄シャウト」(砂守勝巳著 講談社文庫刊)…この本を知ったのは本当に偶然である。タイトルに惹かれ、オキナワンロッカーたちについて何か書いているかも知れないと思い、手にしたのだが…。
本の内容はフィリピン人を父に持つ写真家である著者が生き別れた父との再開を果たすドキュメンタリーなのだが、Aサイン時代の沖縄についてのルポ、ベトナム戦争の落とし子であるハーフの少年、アキラ(パンクバンド「コンチネンタルキッズ」のボーカリスト)へのインタビューなどもあり沖縄ロックに魅入られたものとしては大変興味深い文献だった。
中でも一番惹かれたのは「第一章 沖縄の混血のロックン・ローラー」である。なんとこの章のメインは城間俊雄・正男兄弟なのだ。ジョージ紫や宮永英一、喜屋武マリーについては「ロックとコザ」、「喜屋武マリーの青春」などでその生い立ちは知られているが城間兄弟についての生い立ちも知ることが出来るとは思わなかった。私はページに涙落として本を読んだ。彼ら二人の生い立ちもまた他のオキナワンロッカー同様壮絶であった。1949年7月27日、フィリピン人軍属のコックであった父、フローレンス・モンテメイヤーと軍の食堂でウェイトレスをしていた城間ヨシ子との間に二人は生まれた。俊雄はスムーズに生まれたものの、正男は逆子で難産の末生まれ、しかも大変な未熟児であったらしい。産婆が「もうだめだから捨てようね」と冷淡に言ったほどに。もし産婆の言う通りに母親がしていたら……。紫で見せたあの透明感溢れる声も名曲"Stay with me"もこの世に存在しなかったのである。身震いがした。なんとか出産して何も障害なく二人は育ち、順風満帆な暮らしをしたが…。1951年の沖縄がサンフランシスコ平和条約によってアメリカの施政権下に入り、基地の恒久化がされ、沖縄の民間人が雇用され、フィリピン人軍属は解雇されつつある状況が生まれた。城間兄弟の父、フローレンスもそのあおりを受けた。ヨシコは入籍とそれによる沖縄定住を薦めるが、それは不可能だった。なんと、フローレンスには本国に妻子がいたのである。仕方なく、フローレンスはフィリピンで職を探し、二ヶ月したら帰ってくると言い残して沖縄を去った。そこから城間兄弟の苦難が始まる。
四人の弟と妹の面倒を見つつ幼い頃から働き一家の柱となった。働きつつ、なんとか高校入学にこぎつけ、二人は吹奏楽によって音楽を知る。(俊雄はクラシック音楽に魅入られ、音大を目指そうとするも家庭の事情で挫折する。城間俊雄がクラシックに興味を抱いていたことをはじめて知った。)
1966年、そんな城間兄弟に転機が訪れた。ロックバンド結成である。ロックバンドの名は"ピーナッツ"。マネージャーが当時流行っていた本土の双子デュオ"ザ・ピーナッツ"にあやかりその名をつけたという。彼らは日々の鬱屈とハーフであることの疎外感を演奏によって消化し、それで糧を得た。そして"ピーナッツ"はAサインのクラブで演奏するにつれて徐々に実力を上げていく。さらに彼らは一人の青年がバンドに加入するで一大転機を得る。その青年の名は比嘉ジョージ。後にジョージ紫と改名する日系三世のキーボーディストである。1971年、ジョージの加入によって「紫」が誕生する。紫は一気に飛躍した。しかし、ギャランティはともかく労働条件は過酷なものだったらしい。一日七回のステージにわずかな休憩時間という厳しい労働、やくざによるギャランティのピンハネ。その体験が教訓となって紫のメンバーはクラブ・タイガーを開店。そこを拠点とすることで紫はさらに実力を上げ、1975年に本土デビューを果たした。1976年にはファースト・アルバムをリリース、1977年のミュージックライフの人気投票では堂々の一位。しかし、上昇する人気とともにメンバーは多忙を極め、それによりクラブ・タイガーを閉店することになる。バンド活動も音楽性の不一致により1978年に終焉する。
メンバーはそれぞれの道を歩み、城間兄弟もクラブでの演奏活動を経て新バンド"アイランド"を結成。拠点のライブハウス「アイランド」の開店準備を進めるがその前に実現すべきことがあった。父、フローレンスを探し出して再会することである。しかし、その頃にはフローレンスは既に鬼籍に入っていた。1971年に帰宅途中にジープもろともがけから転落し、そのまま帰らぬ人となるという交通事故死であった。皮肉にもその年は紫が結成された年であった。こうして父親の墓参りが城間兄弟の念願となって1982年に城間兄弟はフィリピンへ向かい、本妻と異母兄弟と対面し、墓参りを果たした。章末にはアイランドのヒット曲"Stay
with me"の歌詞が転載されているが、この曲の歌詞を城間正男はMasao Montemayerという筆名で作詞している。(ちなみに、城間俊雄の別名はJulie Montemayer、城間正男の別名はGust Montemayerという)Montemayerの姓を名乗りつつも父親がつけたGustという名を使わないことが城間兄弟の父親への複雑な思いの表れのようであるのは気のせいであろうか。そして章の間に掲載されたアイランド店前での城間兄弟の幸福に満ちた笑顔の写真を見て胸が痛む。
1996年には不況により、アイランドは閉店。そして…俊雄、正男、両者とも諸事情により音楽活動を停止状態の現在を知る我々としては。 (まいきー)